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MAC 《メリー・アーティスツ・カンパニー》 と一緒に夢を!  舞台芸術批評 音楽評論家 山田 純 氏 [新聞・テレビ・ラジオ・本など]


メリー・アーティスツ・カンパニー第5回定期公演
「BOBBY~20世紀を駆け抜けた男」のプログラムに掲載された
山田純先生のすばらしい芸術論です。





MAC 《メリー・アーティスツ・カンパニー》 と一緒に夢を!
舞台芸術批評 音楽評論家  山田 純


●芸術のない人生なんて!

 芸術大学、芸術家、芸術祭、芸術創造センター・・・。
私たちは何の気なしに「芸術」という言葉を使い、
そして分かったような気になっている。
しかし、少しでもこの言葉を定義しようとすると途端に掴めなくなってしまう。
このもどかしさは日本語の中に「アート」に対応する概念がなく、
翻訳語特有の実体感のなさがこの「芸術」という言葉にあるからだ。


 日本は上代以来、
中国の文化を漢字という外来語を通じて受け入れてきた歴史がある。
その結果かたい表現の漢字と柔らかい話し言葉としての
大和言葉の二重構造が出来上がってきた。
それは西欧の思想を翻訳語という形で輸入したときも同様である。
かたい漢字で記された翻訳語には何か分からないけれどありがたさが伴っており、
それを日本人は特別な言葉として箱に入れてきた。

これを「カセット効果」という。

カセットは宝石箱のことで、中に何が入っているか分からないけれど
魅力的なものが入れられているという意味で用いられる。
そして、「芸術」という言葉もこのカセットの中に入れられて、
西欧語の「アート」とは異なった格調の高い言葉として意味づけられてきたのである。


●アートは芸術か?

 日本語で芸術と訳された西欧語「アート」は、ギリシャ語の「アルスars」に遡る。
この「アルス」の意味は、
人の手を巧みに使った技術とか技とか学術という意味を表しており、
それがずっと西欧のあらゆる言語の基本的な意味として定着してきた。

それが今日言うところの芸術という意味を持ち始めたのは18世紀の中頃、
フランス語のボー・ザールbeaux(良い) artsという意味を含む言葉として
成立するようになってからである。

有名な英語の格言に “Art is long, life is short”というものがある。
日本語では、「芸術は長く人生は短い」と訳されているが、
原典はギリシャの医学者ヒポクラテスの弁 “Ars longa, vita brevis” である。
正しくは「医術は習得に長い時間がかかるのに人生は短い」という意味なのである。


●芸術とは技術の錬磨

 「芸術」という言葉の意味の変遷を
作曲家の作品数という観点から調べることもできる。
J.S.バッハが生涯に生み出した作品は約1080曲にのぼり、
後輩のハイドンは恐らく2千を下回らないだろうし、
さらに後輩のモーツァルトは35年という短い生涯であったが6百を超えている。
しかしながら、ベートーヴェンになると一挙に少なくなり、
作品番号で135曲しか数えない。
その後に連なるロマン派以降の作曲家もせいぜい多くても百曲前後である。
なぜベートーヴェン以後から作品数が激減するのであろうか?


 今でこそ作曲家は芸術家としての評価を得た存在であるが、
バロック以前は単なる職人に過ぎなかった。
職業的作曲家として貴族や教会に雇われて
求められるがままに曲を提供していたのである。
当然ながら、芸術作品という意識がないから作ったらそれで終わりである。

ところが、19世紀以降になると、自らが芸術家であることを意識するようになり、
自身の欲求の赴くままに創造活動を行うようになってきた。
当然もし買ってくれる人がいればいい加減な作品は作れずに、作品数は激減する。


 アートという言葉を、歴史を踏まえて正しく定義すれば、
人間の持つ困難かつ高度な表現能力のことである。
それは個性に裏打ちされ、精神と肉体の活動の結果として
熟練した技術や技を通して成し遂げられるものである。
従って熟達した技術を抜きにして芸術の精神性だけが論じられてはならない。
先ずは卓越した技術、そしてその先に芸術があるのである。


●エンターテイメントとは?

 こうした芸術的な表現活動の大本にあるのがエンターテインメントの技である。
芸術のエッセンスを伝えるためには欠かすことのできない技術と言うことができる。
もしそれがなければ、高邁な芸術の鑑賞行為も
ただの退屈な経験になってしまうだろう。


 エンターテインメントという言葉は日本語ではただ単に「娯楽」と訳されているが、
本来は人を楽しませるというもっと積極的な意味をもつ言葉である。

Entertainの語源を辿ってみると、enter は英語で言えばinter (among)、
tein (tenere ラテン語)は to hold の意味である。

そのまま訳すと「自分たちの中に招き入れてその状態を続ける」という意味になる。
「飽きさせずに人々を魅了してもてなし続けること」といえば分かりやすいであろうか。
あるいは「虜にする」というのも
単刀直入にエンターテインの意味を表しているかも知れない。

つまり「飽きさせず人を魅了し、もてなし続けるための技」が
芸術の本質に他ならない。


●芸術とカタストロフ

 そして、もし芸術が人間のドラマであると仮定するなら、
カタストロフのない芸術ほど面白くないものはない。
逆に言えば優れた芸術には必ずカタストロフがある。

カタストロフという言葉は、
辞書的には自然の大災害や人災としての戦争などの悲劇的結末、
破局のことを表す。また演劇や小説などの最後の盛り上がりとその大団円をも表す。

悲劇と大団円はまったく異なった結末ではあるが、カタストロフは、
結末はどうであれ人生の通常の生活の中にはあり得ない大盛り上がりのことである。

多かれ少なかれ優れた芸術にはこうしたカタストロフがあり、
そうした非日常的な盛り上がりを求めて芸術を鑑賞するのである。

私たちがそうしたカタストロフを求める理由を解き明かしたのが
アリストテレスであった。


●芸術とカタルシス

 ギリシャの哲学者アリストテレスは、
ギリシャ悲劇に基づく悲劇論を『詩学』という書物に著している。

その中で、劇的な表現には「発見」と「逆転」と「浄化」が必要だと述べた。
ソフォクレスの『オイディプス王』に範をとり、
もし発見したら自分の存在が否定されるものを発見し、
その結果現在の好ましい自分の立場がひっくり返ってしまうことが
劇的な表現には欠かせないと説いた。

そして、この発見と逆転の結果、
この劇を見ている人々の心に「驚き」や「恐れ」や「悲哀」が生まれ、
そうした感情を伴うことにより観客の心が浄化されると説いたのである。

この「浄化」は精神分析学や心理学では
「カタルシス」として使われている用語であるが、ギリシャ語の語源を調べると、
「カタルシス」は「排泄」や「下痢」や「嘔吐」の意味であることが分かる。

つまり、芸術を鑑賞して
心の中のしこりが外に排出されスカッとした気持ちになれれば、
それは芸術の恩恵にあずかったというわけだ。


●デモーニッシュな芸術

 一方、夢におけるカタルシスの効果に着目したのが、
オーストリアの精神分析医フロイトであった。

夢や自由な連想法により、非現実の世界への自由な逃避行が行われ、
その結果抑圧されていた願望が満たされると考えた。

すなわち、夢とはカタルシスを伴った代償作用に他ならないというわけだ。
そして解放された満足感を持って現実へと帰ってくることになるのである。

さらに、この逃避行を可能にするのが芸術のなせる技だと考えたのがニーチェである。
ニーチェによれば、芸術を鑑賞して感動するとは、
その芸術に潜む「デモーニッシュ」な側面を感じ取ることであり、
芸術家の役割はそれを引き出すことであった。

ドイツ語で「悪魔的」という意味の「デモーニッシュ」は、
ニーチェが『悲劇の誕生』で引き合いに出したギリシャのエトス論に基づき、
陶酔や情念を表すディオニュソス的なるものから導き出された概念である。

明晰さや理性を示すアポロン的なるものと対極をなし、
芸術表現にはディオニュソス的創造力が必要だとニーチェは説いた。

別の言い方をすれば、芸術を味わう行為は、安定と不安定、明と暗、動と静という
二元論的な緊張感の真っ直中に置かれることを意味し、
その二元が解決することに快感を感じるのである。


●なぜ芸術にこだわるのか?

 さて、今年の3月11日に東日本で起こった大震災の被災者たちを前にして、
私たちは芸術の無力さを悟った。
一生懸命に災害から生きのびようとしている人々の前で、
芸術は何の役にも立たないことを知った。

芸術よりは一個のおにぎり、芸術よりは雨風をしのぐ家、
芸術よりは生きる希望が欲しかったはずである。

当然のことながら、芸術のための予算は削られ、
芸術家の役割はボランティア・リストから消えた。
飢えた人々の前で芸術と芸術家は何をなし得るか?
これは芸術に携わることを決意した人々に対して与えられる永遠の問である。


 震災からしばらく経ってからのこと。
プロ・アマを問わず多くの音楽家たちが楽器を携え、
被災地区を訪れて演奏活動を行ったという。

聞いてくれるのかという不安があったが、
被災者たちはじっと涙を流しながら聞き入っていたと聞く。
またぜひ来て欲しいとリクエストがあったとも。

日々の生活を必死に送らなければならないのだから、
音楽など不必要だと思ったらそうではなかったのだ。

私たちはなぜ生きるためには何の意味も無い芸術に、
これだけこだわるのだろうか。


●MACと一緒に夢を!

 私が「メリー・アーティスツ・カンパニー(以下MAC)」に期待するのは、
上に長々しく縷々述べたこれらの芸術論の中にある。

MACの公演に求めるもの、そして結果として得るもの、
それは芸術が目指す普段の生活にはない非日常的な世界である。
現在という価値観では測ることのできない
何もかも忘れて浸ることのできる芸術の世界である。


 こうした芸術論の「カセット効果」を省いた分かりやすい日本語を用いて
MACの芸術を表現してみよう。

「卓越した技を持ち、人を楽しませるコツを心得た、盛り上がりのある驚きの舞台。
夢のあるハラハラドキドキの筋書きと見終われば心がスッキリする舞台。
そして、何だかわからないけれど涙と笑いが出てきてしまう舞台。」である。


 「私たちの歌と踊りとこの笑顔、そして私たちの技を心ゆくまで味わって下さい。
この限られた時間をこの限られた空間の中で共有してみませんか?」

永見隆幸氏が舞台の上から そう語りかけているようだ。





yamadajunsan.jpg 山田 純 YAMADA Jun 

東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。

日本音楽学会会員、日本アートマネジメント学会会員、
日本音楽芸術マネジメント学会幹事、音楽ペンクラブ会員、世界劇場会議理事。

朝日新聞音楽評論執筆者。名古屋芸術大学大学院音楽研究科教授。
専門は、音楽評論、舞台芸術論、アートマネジメント論。