SSブログ

ジャズ・ミュージカル『HOPE』 メリー・アーティスツ・カンパニー [上演作品]

メリー・アーティスツ・カンパニー ジャズ・ミュージカル HOPe~夢をあきらめないで


2008年11月15日&16日 名古屋市芸術創造センターにて

img20080831044824.jpg





劇場の楽しみ   芸術文化振興機構アーツ・アクティヴェイター理事 藤田彰彦



「劇場は人が集り、夢が溢れる楽しいところ。」ということが定説である。

昔、劇作家シェークスピアの活躍していた頃の劇場は、2階はバルコニーで貴族達が座り、1階は土間で椅子はないのが(立ち見)平民の席だったようだ。もちろん、木造で大きな柱は使えない(客席から舞台を見るのに邪魔になる)建築学のほうからみても、劇場の建物自身そう大きなものではなかったようだ。

だから土間の平民は舞台に近く、音響設備のない当時としては生の台詞、生の歌、生の音楽を楽しんだ。そして観客は得意になって野次を飛ばしたのであろう?下手な台詞、聞こえない声、邪魔な音楽に対して。

気に入らない俳優には野次り倒して、声が聞こえないような妨害を平気でしていたかもしれない。(でも、それも劇場を楽しむひとつだったかも?)

日本でも、江戸時代からご婦人方は芝居小屋に出掛けるとなると、まづ呉服屋に行き着物を注文し、髪結いに、履物にと・・・ その準備に追われたようだ。

もちろんおしゃべりもあって、「わたし、どこどこの芝居小屋へ何を観にいくのよ、俳優の誰々が素敵で楽しみよ!」と自慢話に花を咲かせ。芝居を見終わって、またまた「あの俳優が私の方をじっと見て、お三味線に合わせた歌に、つい涙が溢れて・・・ あ~ぁ!まるで夢のようだった」などなど、切符を手にいれてから、芝居を観終わって、この間、約2ヶ月ぐらい。十分に劇場を楽しんでいるのだ。

刺激の多い現代。楽しみは劇場だけではないかもしれないが、ファッションのお洒落をする、レストランでのマナーに気を配るなど、劇場に行く日は「特別な日」「いつもと違う日」日々の生活のリズムを少し変えて、豊かな人生のひとつとして、ちょっと贅沢をしてみたいものだ。



fujitaasensei.jpg 藤田彰彦 FUJITA Akihiko


舞踊家。ザ・バレコン実行委員長。

昭和53年、愛知県芸術選奨文化賞を受賞。
昭和57年、文化庁在外研修員として、ニューヨーク・シティ・バレエ団、ロンドンのロイヤル・バレエ団に派遣された。

昭和63年、文化庁芸術祭賞を受賞。
ロシアのマリ・エル劇場より演出を、韓国のLee Won-kuk Ballet Companyより演出と振付を依頼される。
ペルー共和国の招聘により6回の公演を行うなど、世界的に活躍している。







芸処名古屋の新しい風  芸術文化振興機構アーツ・アクティヴェイター理事 安田文吉



 尾張名古屋は芸処と言われてすでに久しい。

そもそも その始めは 徳川家康が名古屋に城を造り、碁盤割の町を作った 慶長の昔(一六一五年頃)にまで遡ります。

尾張名古屋は 木曾・長良・揖斐 といったいわゆる木曾三川なる豊かな川、伊勢湾という豊かな海、濃尾平野という豊かな野、表木曾、裏木曾、といった豊かな山、すなわち川の幸・海の幸・野の幸・山の幸に恵まれたところです。

織田信長は名古屋(那古野)から清須へ行ってしまいましたが、家康は再び名古屋の地へ城を戻しました。以来四百年、名古屋の地は、豊かな土地柄を背景に、種々の分野で、様々な文化を育んできましたが、芸能文化もその一つです。

芸能文化といえば尾張第七代藩主徳川宗春公とその時代が取り沙汰されますが、実は初代藩主徳川義直公から、殿様を始め、家臣から町人に至るまで芸能を楽しんだのです。


 義直公はとくに能の鼓の名手で、若いとき、大阪城で打った鼓に感激した豊臣秀頼から「刈田」という銘の鼓を貰いました。
この鼓は今も徳川美術館に収蔵されており、時には演奏もされています。

また、寛永十二年(一六三五)七月に江戸城で催された三代将軍徳川家光の茶宴では、名古屋から二十三人の若衆を連れて行き、義直公を中心に若衆踊り(若衆歌舞妓踊り)を披露、これには参列した大名諸侯もびっくり。それ故、これは「殿様おどり」として後世まで伝えられました。

二代藩主光友公は、能の舞の名手で、当時の尾張藩お抱えの能役者金春八左衛門浄玄に次ぐといわれ、また側近にも能を勧め、側近の家臣のみで、様々な能が演じられるようにしました。


 こういった流れの中で、宗春公の時、芸能文化の花が一気に咲いたのです。
規制緩和の政策の下、城下には約六十箇所に芝居小屋(歌舞伎の劇場)が出来、年間約百三十本もの歌舞伎が演じられていました。まさに日本一の芝居王国です。

この頃にはお茶(茶道)も町人の間にも盛んとなり、現在日本一である抹茶文化の基礎が築かれました。

この他、名古屋の芸能を数え挙げたら切りがありません。能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃(義太夫、常磐津)、長唄、平曲、筝曲、名古屋甚句、都々逸(名古屋発祥)、踊り(舞踊)、茶道、華道、香道などなど。こうした芸能が「習い事」として町中に浸透して芸処を支えました。 


 これが現在まで伝わり、盛んに(一部を除いて)行われていますし、
新しい芸能も盛んです。

「習い事」と言えば、何も伝統的なものに限ったことではありません。バレエが盛んなのも当地です。
バレエ団の数もバレエ人口も全国で一、二を争うほどです。昨今フィギュアスケートで名を馳せているのも、根っこはここにあります。

私自身も、母が常磐津の師匠だったので、四歳から常磐津のお稽古を始め、(安田先生の御母堂:常磐津文字登和 ときわづもじとわ 故人 無形文化財資格保持者)
小学校一年からは西川鯉三郎師に入門、踊りを習い、同二年からは書道を、六年生からは朝日ジュニアオーケストラでフルートを習い、高校では東海高校男声合唱団でバリトンをやっていました。
こうやって、自然に芸能と馴染んでいくのが芸処名古屋なのです。


 この東海高校男声合唱団の後輩が永見君だった。また、私は名古屋大学大学院生の時、東海高校で国語の教師をしましたが、その最初の年の生徒の一人が永見君。以来教え子、クラブの後輩と切っても切れぬ縁で今まで来てしまいました。

教室で初めて永見君に会った時の印象は、随分スリムで背の高い生徒というところでした。それなのにアメリカ滞在中に、食べ物のせいもあってか、またまた背が伸びて帰ってきたのには驚きました。二十歳を過ぎても背が伸びるとは…

永見君の声の良さ、声量の豊かさ、表現の巧みさにはすでの定評がありますが、合唱団の時から、その声には部員一同驚かされたものです。

教室での永見君はいつも明るくはきはき。結構可愛かった。
教壇から見ていると、いろいろな意味で目立つ生徒、目立たない生徒は、最初の授業でほとんどわかります。

永見君は初対面からはっきりと記憶に残っています。
ちょっとおっちょこちょいな面もありますが、これがかえってクラス、合唱団の雰囲気を和らげ、皆が永見君に付いていくことになるのです。
クラスでも、団でも、いつも中心にいて、何かと引っ張っていってくれました。

永見君は、一方で意志の強い人です。どこまでも音楽一筋の人生を歩み続け、しかも、一つ一つものにしていく、そのエネルギーは見事です。


 その永見君が今目指しているのが、ジャズ・ミュージカル。 芸処名古屋に新しい芸能を加える試み。今回の演目は 『HOPE~夢をあきらめないで』。まさに永見君にピッタリの題名です。

今宵は、永見君をはじめとするメリー・アーティスツ・カンパニーの熱演を楽しみたい。





bunkichisensei.jpg 安田文吉 YASUDA Bunkichi


文学博士。 南山大学人文学部日本文化学科教授。
名古屋大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程終了。

浄瑠璃や歌舞伎を中心とした近世芸能文化の研究や徳川宗春の研究で知られ、
新聞やテレビの評論、解説などでも活躍。

『常磐津節の基礎的研究』『「ゆめのあと」諸本考』 『幕末・明治 名古屋常磐津史』
『歌舞伎のたのしみ』 『歌舞伎入門』 ほか、著書多数。

1987年4月から1989年3月までNHK総合テレビ
「北陸東海-文さんの味な旅」のメイン・キャラクターを務める。
1988年から年2回、3月と10月にNHK「芸能花舞台」の解説者として出演。
1990年9月10日から9月28日までNHK衛星第2放送
「TV紀行 当世テレビ膝栗毛」にレギュラー出演。

ユニークな研究 と 温かい人柄に ファンが多い。







『 HOPE ~夢をあきらめないで 』 


フランク・シナトラ、ビング・クロスビー、フレッド・アステア、ジーン・ケリーなど、歴史にその名を残すパフォーミング・アーティストが星の数ほどいた時代。

『HOPE』は、現代のミュージカルの原点が創り出されたその時代にスポットを当て、いろんな人達がそれぞれの夢に向かって進む様をミュージカルのワンシーンに仕立ててオムニバス風に上演します。

「オムニバス風」と言っても、本作品は完全に独立したシーンの羅列ではありません。
ひとつのシーンがそれだけで完結しているように見えても、全てのシーンに何かしらの繋がりが感じられるように工夫されています。
全体を見渡せば、底流にある一つの明確なコンセプトを見つけることは、さして難しくないはずです。

『HOPE』の舞台は、ミュージカルの黄金期をノスタルジックに懐古して往時のスタイルをそのまま踏襲している訳ではなく、歌唱や振付や楽曲のアレンジなど、現代の我々の感性に訴えるヴィヴィッドな生命感あふれる表現ができるように再構成しました。

夢を語る人、夢を見ているだけの人、夢に敗れた人、夢を実現させた人など、様々な人生が作品に盛り込まれ、その模様が舞台の上に繰り広げられます。
夢をもつことの素晴しさ、夢をあきらめずに歩む人生の充実感について、皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。







Behind-The-Scenes 《ひとりごと》 



2008年8月。
メリー・アーティスツ・カンパニーの公演に向けて 稽古が始まった。
相変わらず、どんなシーンのどんな稽古なのか、
事前に知らされることなく集まるメンバー。

靴を選ぶだけでも大変である。ジャズシューズを履くのか、
ハイヒールのダンスシューズを用意するのか分からない。
いやいや ひょっとしたらタップシューズが必要なのか???
今年は裸足!とも言われかねない・・・

とにかく、『メリーの稽古は歌って踊れるカッコウをして集合する』ことだけが暗黙の了解。
メンバーは、いつもその場で要求されるものに即座に応えなくてはいけない。

そして、見事に応えてくれるメンバーがいつも稽古場に集まっている。
なんて素適な場所なんだろう。

歌える人が歌うのはアタリマエ。踊れる人が踊りを魅せるのもアタリマエ。
でも、その「アタリマエ」をお客様の期待通りに 歌い、踊る だけでも、実は、かなり、もの凄く、大変なことである。

得意とする分野のことが稽古場で100回出来ても、本番の1回を失敗することもある。
歌手が突然歌詞を忘れて頭が真っ白になることや、ダンサーが振りを間違えてその後の記憶が全く無い なんてことも珍しくない。
得意なことをしていても、である。

そういう舞台の緊張感がたまらなく好きであるからこそ、今私達はここにこうして稽古場に集まっているのだ。
しかも。
メリーでは得意なことをするだけでは許されない。
何と言っても「歌って踊れて当然芝居心のある舞台人」の集まりだと自ら宣言しているのだから。

前述のような 出来の悪いシーンを演出してしまった苦い経験があるかもしれないけれど、それ以上に、本番の舞台には測り知れない魔力があり、私達を魅了している。

いつも最高のパフォーマンスを披露したい。自らの限界に Try したい。
新しいことにチャレンジして お客様に観ていただきたい。
そんな欲求のカタマリがここに集まり、メリーの原動力となっているのは間違いないだろう。

今宵 ご覧いただく『HOPE~夢をあきらめないで』と言うタイトルには実は続きがある。

『HOPE』~夢をあきらめないで生きている私達をどうぞご覧ください であり、または、『HOPE』~夢をあきらめないで生きていると楽しいことがきっとありますよ である。

私達の「あきらめていない夢は」お客様に楽しんでいただけるステージを創り上げること であり 
ステージに立ち続ける自分を維持し少しでも向上させていくこと である。

そして、私達が創り上げたステージをご覧いただいた皆さまが少しでも楽しいと感じてくださり
この一瞬の時間を共有して、生きる喜びを感じていただけたなら
それは 無上の喜びです。



第1景では色々な人々が、色々な人生を歩む姿があります。   

どの人生にも いつも歌があり、いつも踊りがある。
楽しいときも悲しいときも。
スターを志す者、仕事の成功を夢見る者、旅を楽しむ観光客も、みんな 花の都 ニューヨークを目指します。


第2景は Duke Ellington デューク・エリントンの名曲を集めて。
      
ニューヨークの地下鉄の8番街急行、通称「A列車」に乗っていく美しい女性達は どこへ行くのでしょう?
途中で出会った人に「BliBli - p」と恋をしたり、思わず隣の異性に目を奪われたり、うっかり浮気をして痛い目を見たり。
それでも 世の中は幸せいっぱい「Lucky so-and-so」。
気がつけばハーレム。
星の美しい砂漠の魅力的な女王に魅せられて虜になる男達は地中深くに溶けて行くのでした。

 
第3景 something extra それは 季節のご挨拶

どうぞ ご一緒に。





♪ お楽しみに ♪





反響など 詳細はこちらをクリック!
 ↓
http://merry-uta.blog.so-net.ne.jp/2009-01-20
 ↑
Click here ♪



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。